目に見えない仕事をやっていく
目に見える仕事、いいよな。
でも、目に見えない仕事も大事だよな、という話をしたい。
目に見えない仕事ってなんだ
目に見える仕事はわかりやすいやつ。新しいものを作った、すごく売れた、メディアに取り上げられた、とか。
一方で目に見えない仕事は俗に言う裏方仕事ってやつ。壊れたものを直す、汚れたものを綺麗にする、お金が儲かったりはしないんだけどやらなきゃいけないやつ。自分は IT エンジニアなのでその分野で具体例を出すと、今は使ってないんだけどなぜか残ってるサーバを落とすとか、なんかエラーが通知された時に調べるとか。
あとは俗に言う「こぼれ球」的な仕事もここに入ると思う(「目に見えない」と言っていいかはわからないけど)。チームのやらなきゃいけないことではあるんだけど誰にも割り振られてない、ちょうどすき間にあるやつ。
目に見えない仕事はむずかしい
まず気づかないことが多い(目に見えないんだからそれはそう)。基本的に仕事は無限に湧いてくるので、来た球を打ち返してるだけでも日々は過ぎていく。しかも気づいたとしても、それをやらなくても自分の仕事をやっていればちゃんと仕事をやっていると言える。
ちなみに「いやいやそんなん全部チームのタスクにして割り振ればいいじゃないですか」みたいな意見もあるかもしれない。もちろんそれも1つの方法で、それがやれる環境ならやったほうがいい。ただ管理するっていうのはそれなりのコストがかかるので、どこかで タスクを実行するコスト < タスクを管理するコスト になってしまうラインがあると思っていて、そうなると管理するのが大変である程度見切りをつける、みたいなことが発生すると思う。
また別の観点だと、こういう仕事は難易度的に難しいわけじゃないこともまあまあある。だから評価の時に「それをやるためには高い専門性が必要なんですか?」とか言われると「いやまあ他の人でもできるとは思いますけど...」みたいな感じになったりする。
時間差で困る
じゃあしゃーないねって言って目に見えない仕事をやらなくなっていくと、それはそれで困ってくる。何が起こるかっていうと、少しずつ目に見える仕事に良くない影響が出てくる。
例えばドキュメントが古いままだと、書いてあることが信用ならないのでそのうち誰も読まなくなったり、別のところに新たなドキュメントが爆誕したりする。よくわからないサーバやコードがどんどん増えていくと、どれが使ってるやつでどれがいらないやつなのか誰もわからなくなっていく。
こういうことが続くといずれ目に見える仕事の成果も少なくなっていってしまう。 IT 界隈では「技術的負債」という言葉がよく言われるけど、負債は技術に限らずいろんなところに溜まりうる。
何をモチベにやってるの
じゃあやっていかないといけないですねとなるのだけど、ここまでの話だけだと「やらなあかんのはわかるけど自分はやりたくねえ」みたいな気持ちになるかもしれない。わかる。
参考になるかわからないけど、自分がそういう動きをするときにどういうモチベーションでやってるのかを書いてみる。 こういうのを書いていくことでモチベを上げているとも言えなくもない。燃料は多いほうがいい。
やれることが増えていく
それはそうって感じなんだけど、意外といろんなことをやることになる。自分だと専門外の技術領域のこととか、採用の面接やってみたりとか、エンジニアの仕事じゃなさそうなこともやったりした。でもこれは今思うと本業の方にも活きてたりするし、なにより自分の人間的なキャパシティと言うか枠を大きくすることに役立っている気がする。
思考のスケールが大きくなる
目に見えない仕事っていうのは自分の少し外側にあることが多い。だからそういうことをやっていると、行動や思考の範囲が「自分」から「チーム」になっていく。巷で言う「視座が高い」みたいな話と同じかもしれない。でもこれってマネージャーとか経営層になる、みたいな話だけじゃなくて、地域のボランティアをされている方とかも同じで、自分だけじゃなくてコミュニティという視点で考えるようになる、みたいなことが言いたい。
これは本当に尊くて、こういう人たちがコミュニティや社会を支えているんだということを忘れないようにしたいし、少しでもそれを手伝えるといいなと思う。
ちなみにサラリーマン的な話もしておくと、一人でものすごいアウトプットを出す天才はともかく、一般人同士だとこういう思考が広い人の方がより大きな仕事をする機会に恵まれがちなので、結果として評価も高くなりがち。これは能力が評価されているというより、実際の行動が評価されているという感じだと思う。「できる」と「やる」には大きな差があるよねって話。でこれは能力勝負をするよりはハードルが低いんじゃないかと思っていて、自分はこっちでなんとか飯を食っていっているように思う。
仕事を自分で選ぶ
人間の心理的に、「自分で選んだものの方がより価値を感じる」という話がある。これは仕事でもそうだと思っていて、自分で「やるぞ」と腹をくくった仕事は、人からやらされる仕事よりも精神衛生的にいいと思う。チームに必要な目に見えない仕事を自分でやっていくことで、自分で自分をコントロールしている感が得られる気がしていて、ひいてはチームに対してのオーナーシップにつながっていくんじゃないかなと思う。
自分のモチベーションはこのあたりにある気がする。さらに言うと自分は「組織に依存しない力をつけるために、自分のレベルを上げることに価値を感じる」タイプなので、思いもしない経験を得られるこのムーブは結構悪くないと思っている(大変なときもあるけど)。
書いていて思ったけど、組織に依存しない力をつけようとすると、結果として組織的な動きを意識するようになるの面白いな。これは個人の組織化とも言えるかもしれないなあとか思った。
ありがたいことに今の会社はコミュニティを大事にしようという人が多くてすごくいいなと思う。それでも目に見えない仕事はいっぱいあるわけなので、やっていこう。
感情を1つに丸めない
最初はタイトルを「感情を配列で持つ」とか考えてたけど、狭い層にしか刺さらなそうだったのでやめた。
人と話したりしている時に、内容によってはカッとなったり言い返したくなったりすることがあると思う。ただ、多くの人は感情のままそうした結果、あまりよくないことになったこともあるんじゃないかと思う。(自分もそう)
でこれをやめたいなあと思って過ごしていたんだけど、最近なんとなくそういう「感情にまかせて」的な言動が減ってきたような気がしなくもないので、それについて考えてることをまとめておく。
感情って同時にいくつも持っているのでは?
昔、仕事でとあるアイデアに対して感情荒く反対したことがある。その時を思い返して、実際どういう感情を持っていたのだろうかということを書いてみる。
表面上その時の自分は「怒っている」ように見えたと思うけど、実は
- これは失敗しそうだなあ
- 失敗したときに大変なのは自分だなあ
- 大変なのは嫌だなあ(これが感情として出ちゃっている)
- でもこのアイデアを出した人のことは尊敬している
- でもこのアイデアを出すきっかけになった問題は解決しないといけないなあ
だった気がする。
ただこの時にうまくやれなかったのは、その他の感情を自分の中で丸めてしまって、「嫌だなあ」だけが残ってしまったとこなんだろうなあと今になって思う。
そもそも感情の発露って基本的には瞬間的に沸き起こるものだし、こんなに綺麗に文章化されているわけじゃない。だからこれは結構意識してやっていて、たまに「今自分はどう思っているんだろう」とか頭の中で反芻していたりする。
ちなみにこの考え方は「シックスハット法」を知ったのがきっかけ。
シックスハット法では6つの決まった立場でそれぞれ考えてみる、なんだけど自分は特に決まった立場とかは考えず、単純に1人の人間の中に思っていることが複数存在する、ぐらいのニュアンスで考えている。
感情を複数持ったときの振る舞い
さっき書いた感情を1つに丸めずに持ったまま話をしようとしたときにどうなるかというと、たぶん「感情荒く反対する」にはならないと思うのね。(そのアイデアはうまくないけど、問題は解決しないといけないので)
身近な例だと思い当たるのが、「自分はAさんとBさん両方と仲がいいけど、AさんとBさんは仲が悪い」みたいなパターン。
こうなった時って自分の受け答えとして「そうっすよねハハ...」みたいなお茶を濁す感じになることが多いんじゃないかなと思っていて、あれはAさんに対する感情とBさんに対する感情を両方持っているから起こり得ることなのかなと思う。
要するに
- 感情を1つに丸めないようにすれば感情的にならずにすむかもしれない
- 純度100%の感情はそれはそれとして大事にしていけ
文系と理系の価値観の違いは経験の違いから来ているんじゃないかという仮説
たぶんもう2億回ぐらい擦られまくった話題だと思うけど、個人的には新発見だったので書き残す。
そもそもなんでこんな話するねん
ある日、妻(社会学部)に「勤めている会社の新卒研修でビジネス本の輪読やってるんだけど、面白そうやねん」という話をしてみた。
そしたら妻が「大学のとき授業とかで輪読やってたなあ」とか言い出して、自分(工学部)が「え、なにそれ知らんけど」となったのが発端。
でいろいろ話をしてみると、どうも理系と文系では社会に出るまでに経験したことが全然違うっぽい。で、文系と理系が分かり合えない(諸説あり)のってここから来てるのでは?と思ったのでまとめてみる。
理系が経験してきていること
一応自分は大学を工学専攻で出てソフトウェアエンジニアやってるので、世間的にはだいぶ理系といっていいんじゃないかと思う。その自分含めて理系の人たちが通る道として、「何事においても正しさを求められる」という経験を一度はするんじゃないかと思う。
理系の学問では多くの場合なんらかの「正解」があり、いかにしてそこにたどり着くかという能力を問われる。
もちろん研究のような未踏の領域に踏み込むとその限りではないけど、それだってなにかしらの「正解」を探すことが目的で、その手法が確立されていないので探索する、的な感じなのでは?と思う。
これは社会に出てからも、ソフトウェアの世界なんかではそれが求められることは多くて、そういった経験をずっと積み上げているのが理系なのではと思う。
インターネッツの世界では「はい論破」みたいなワードがあったりするが、これも実に理系的で、その背景には「議論には正しさという一元的なスコアがあり、より高スコアを叩き出したほうが勝利する」というような価値観が存在しているように見える。
文系が経験してきていること
一方で文系はどうも正しさをあまり重視していないっぽい。
妻に聞いてみたところ、文系の学部では輪読やディベート、ロールプレイングといった集団での話し合いの機会が多くあり、しかも議題の多くは「正解がないもの」であることが多かったとのこと。
大学の講義で「今日は『自由』について議論してみましょう」みたいなことが突然行われるようなんだが、マジなのですか?知らない世界過ぎる。
ちなみに自分は今のところ人生で一度も他人と「自由について議論」したことはないので、「自由について議論するスキル」については妻に遠く及ばないことが発覚した。
ちょっと自由の話で盛り上がりすぎたけど、ここで言いたいのは、文系の人たちは「正解がないものについて議論する」という経験をたくさん積んできているっぽい。
なのでここで求められるものは「正解を導き出す」ことではなく、「議論をすることそのもの」にあるように見える。
だとすると「参加者全員が意見を出し合えるような立ち回り」とか「意見の違う人から学ぶ姿勢」みたいなスキルが発達してもおかしくない。
一方で「なにか正解がある問題に対して正解を導き出す経験」はあまりしてきていないように見える。
社会に出るとどうなるか
「正解を導き出す力」と「正解がないものについて考える力」の両方が求められる、と思う。個人的には。
なので社会に出てすぐはお互い宇宙人のように見えているだろうが、社会を長くやっていくと次第にレベルアップしてもう片方の属性も会得していくので、自然と分かり合えるようになっていくのでは、という気がする。
個人的にも、もともと「課題解決力(笑)」みたいなバリバリの理系スキルでなんとか仕事をやってきたところ、最近になって「チームでうまくやっていくために」とか「人の気持ちに寄り添う」みたいなことをやろうとしてとても苦労しているので、めちゃくちゃ腑に落ちるところがある。
「隣の芝生は青く見える」とはよく言ったもので、今の自分には「大学のころに人間とか社会についてもっと知ってたらもっと違った立ち回りができたろうに」みたいな気持ちが出てこなくはないけど、逆に「課題解決なんてわかんねーよ、大学で教えといてくれよ」勢も世の中にはいるかもしれない。
結局人間は完璧じゃないのでやっていくしかないんやなあ。