文系と理系の価値観の違いは経験の違いから来ているんじゃないかという仮説

たぶんもう2億回ぐらい擦られまくった話題だと思うけど、個人的には新発見だったので書き残す。

 

そもそもなんでこんな話するねん

ある日、妻(社会学部)に「勤めている会社の新卒研修でビジネス本の輪読やってるんだけど、面白そうやねん」という話をしてみた。

 

そしたら妻が「大学のとき授業とかで輪読やってたなあ」とか言い出して、自分(工学部)が「え、なにそれ知らんけど」となったのが発端。

 

でいろいろ話をしてみると、どうも理系と文系では社会に出るまでに経験したことが全然違うっぽい。で、文系と理系が分かり合えない(諸説あり)のってここから来てるのでは?と思ったのでまとめてみる。

 

理系が経験してきていること

一応自分は大学を工学専攻で出てソフトウェアエンジニアやってるので、世間的にはだいぶ理系といっていいんじゃないかと思う。その自分含めて理系の人たちが通る道として、「何事においても正しさを求められる」という経験を一度はするんじゃないかと思う。

 

理系の学問では多くの場合なんらかの「正解」があり、いかにしてそこにたどり着くかという能力を問われる。

 

もちろん研究のような未踏の領域に踏み込むとその限りではないけど、それだってなにかしらの「正解」を探すことが目的で、その手法が確立されていないので探索する、的な感じなのでは?と思う。

 

これは社会に出てからも、ソフトウェアの世界なんかではそれが求められることは多くて、そういった経験をずっと積み上げているのが理系なのではと思う。

 

インターネッツの世界では「はい論破」みたいなワードがあったりするが、これも実に理系的で、その背景には「議論には正しさという一元的なスコアがあり、より高スコアを叩き出したほうが勝利する」というような価値観が存在しているように見える。

 

文系が経験してきていること

一方で文系はどうも正しさをあまり重視していないっぽい。

妻に聞いてみたところ、文系の学部では輪読やディベート、ロールプレイングといった集団での話し合いの機会が多くあり、しかも議題の多くは「正解がないもの」であることが多かったとのこと。

 

大学の講義で「今日は『自由』について議論してみましょう」みたいなことが突然行われるようなんだが、マジなのですか?知らない世界過ぎる。

 

ちなみに自分は今のところ人生で一度も他人と「自由について議論」したことはないので、「自由について議論するスキル」については妻に遠く及ばないことが発覚した。

 

ちょっと自由の話で盛り上がりすぎたけど、ここで言いたいのは、文系の人たちは「正解がないものについて議論する」という経験をたくさん積んできているっぽい。

 

なのでここで求められるものは「正解を導き出す」ことではなく、「議論をすることそのもの」にあるように見える。

だとすると「参加者全員が意見を出し合えるような立ち回り」とか「意見の違う人から学ぶ姿勢」みたいなスキルが発達してもおかしくない。

 

一方で「なにか正解がある問題に対して正解を導き出す経験」はあまりしてきていないように見える。

 

社会に出るとどうなるか

「正解を導き出す力」と「正解がないものについて考える力」の両方が求められる、と思う。個人的には。

 

なので社会に出てすぐはお互い宇宙人のように見えているだろうが、社会を長くやっていくと次第にレベルアップしてもう片方の属性も会得していくので、自然と分かり合えるようになっていくのでは、という気がする。

 

個人的にも、もともと「課題解決力(笑)」みたいなバリバリの理系スキルでなんとか仕事をやってきたところ、最近になって「チームでうまくやっていくために」とか「人の気持ちに寄り添う」みたいなことをやろうとしてとても苦労しているので、めちゃくちゃ腑に落ちるところがある。

 

「隣の芝生は青く見える」とはよく言ったもので、今の自分には「大学のころに人間とか社会についてもっと知ってたらもっと違った立ち回りができたろうに」みたいな気持ちが出てこなくはないけど、逆に「課題解決なんてわかんねーよ、大学で教えといてくれよ」勢も世の中にはいるかもしれない。

 

結局人間は完璧じゃないのでやっていくしかないんやなあ。